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皆さん、こんにちは。
介護サポートノートのゆりえです。
いつもご覧いただき、ありがとうございます。
先日、私の祖母が91歳で亡くなりました。
今回は4部構成にして、その祖母との思い出や、私自身が経験した遠距離介護の背景についてお話ししたいと思います。

1. 遠距離に住む孫としての私
私と祖母は、私が幼い頃からずっと離れて暮らしていました。
飛行機で移動するほどの距離感です。
そのため、めったに会うことはできませんでした。
会うのは2〜3年に一度くらい。
私が両親と祖父母の家に遊びに行ったり、祖父母が実家に来てくれたり。
幼い頃から数えきれないほどの思い出がある、というわけではありません。
多くの方と比べると、祖母との思い出は少ない方かもしれません。

今回亡くなった祖母は、私の母の母にあたります。
母には弟(私にとっては叔父)が一人いる二人兄弟でした。
叔父は祖父母の家のすぐ近く、車で5分ほどの距離に住んでいました。
そのため、何かあれば叔父夫婦が面倒を見るという状況がずっと続いていました。
2. 介護が必要になった最初の出来事
祖母はずっと熱心に働いていました。
60歳を過ぎても、一生懸命に働き続けていたそうです。
60代後半、70歳手前の頃のことです。
祖母はいつも原付バイクに乗って移動していました。
そのバイクに乗ろうとした時に転んでしまったそうです。
転倒した際に、足の骨、大腿骨(ももの骨)の付け根(股関節部分)を骨折してしまいました。
この部分は骨がくっつきにくいため、手術をすることになりました。

しかし、その頃はまだ60代と若かったこともあり、手術後は比較的元気に過ごしていました。
私がまだ小学生の頃でしたが、その後数年後に祖母が私の実家に遊びに来てくれた際には、一緒に遊園地に遊びに行ったりもできました。
当時はまだ元気だったという印象が強く残っています。
3. 病状の変化と障害者手帳の取得
それからしばらくも、私たちは引き続き2〜3年に一度のペースで会うという距離感でいました。
今から10年ちょっと前、祖母が80歳くらいの時です。
祖母が心筋梗塞で倒れたという連絡が母の元に届きました。
心筋梗塞の中でも状態は良くなかったようで、命に関わるかもしれないという緊迫した連絡でした。

幸い、祖母は一命を取り留めました。
しかし、心臓に大きな負担はかけられない状態になってしまいました。
その時、内部障害(内臓の機能的な問題)が残ったため、祖母は初めて障害者手帳を取得したと聞いています。
無理はできない身体になってしまったのです。
80歳という年齢もあって、徐々に体への負担を考慮しなければならない状態になっていきました。
4. 生活環境と支援の必要性
祖父母が住んでいた家は、山の中の古い家でした。
幸い、近くにバス停があり、バスに乗れば市街地までは出られました。
しかし、バスがないと生活に必要なスーパーやコンビニ、お店は一切ない場所でした。

当時、祖父も加齢とともに運転が危なくなり、祖母が心筋梗塞で倒れる前に運転免許証を返納していました。
元々、祖母は運転免許を持っていませんでした。
そのため、老夫婦二人、山の中で車もなく生活するという状態になってしまったのです。
叔父夫婦は二人とも共働きで忙しかったのですが、この頃から、買い物など生活に必要な世話を、可能な範囲で行うようになっていました。
私自身もちょうどその頃働いており、なかなか頻繁に会いに行くことは難しかったのですが、2〜3年に一度は顔を見せに行くようにしていました。
5. 介護保険サービス利用へのきっかけ
祖父母の生活が困難になっていく中で、遠方に住む私や、近くで動いてくれていた母や叔父たちも、「どうしたらいいのだろう」と悩むようになりました。
特に、近くに住む叔父夫婦は共働きで忙しく、手探りの状態で介護が始まっていました。

私もすぐに駆けつけることはできませんでしたが、専門職として離れた場所から情報での支援を試みました。
私から母や叔父たちに、**「地域包括支援センター」に相談すると良いことや、「介護保険の申請」**をしてサービスを使った方が良いことを伝えました。
何から手をつければいいか全く分からなかった状況で、相談先や次のステップを教えることができました。
ただ口で伝えることしかできなかったのは心残りでしたが、介護保険の利用に向けて、ご家族が動くきっかけにはなれたと思っています。
この記事を読んでくださっている皆さんの介護生活にも、必要な情報が届くことを願っています。
(【第2話】へ続く)

※記事中の写真・イラストは、筆者の体験を伝えるためのイメージであり、AI生成画像とフリー素材を使用しています。

